慶応元(1865)年の前半、坂本龍馬は中岡慎太郎たちと共に薩長和解にむけて奔走し、
薩摩の西郷隆盛が京都へ上京する際、下関へ立ち寄り、長州の木戸孝允と会談する手はずを
整えたにもかかわらず、西郷がすっぽかしたために薩長和解工作は失敗に終わっていた。
この頃、坂本龍馬は同時進行で別の事業の立ち上げを勧めていた。
同志を20人ばかり引き連れ、長崎の亀山に「社中」を設立したのである。
社中の隊士は揃いの白袴を着用したことで、長崎の人々からは「社中の白袴」と呼ばれた。
亀山社中は当時は「社中」と呼ばれており、「亀山社中」というのは後世になって土地の名前を
つけたものだと推測されている。
この社中は薩摩の援助を受け、薩摩藩家老・小松帯刀から毎月3日に3両2分(約9万6千円)が
ひとりずつに支給された。
社中の目的は海軍の航海術をもって貿易などの商業活動をおこなうことであったが、その実態は、
政治活動をするとともに、軍事的な側面も持つ総合商社であった。
亀山社中の設立
薩長和解へむけた龍馬の策
この頃、長州の大村益次郎は、相次ぐ戦いに備え兵制改革をおこなった。
しかし、それには最新式の武器と軍艦が不可欠であった。
だが、幕府諸外国に対し、長州への武器弾薬類の取引を全面的に禁止し、幕府の直轄領である
長崎への出入りも幕吏が厳しく取り締まっていた。
一方、薩摩では兵糧米の調達に苦心し、一糧でも米を備蓄したいと考えていた。
この両藩の状態をみた龍馬はひとつの策を考えた。
それは、外国から武器を薩摩名義で買い入れ、密かに長州に売りさばき、その見返りに兵糧米を
長州から薩摩に届けるというもので、その間を龍馬が率いる亀山社中が取り持ち、双方の利潤になる
取引をもって両藩の和解を図ろうと考えたのである。
龍馬は慶応元年6月24日、薩摩藩京都藩邸で西郷に会い、長州のための軍艦や武器弾薬の
購入にあたって薩摩の名義貸しを頼みこんだ。
薩摩藩家老の小松帯刀は、すでに龍馬のこの申し出を承認しており、西郷も快く承諾した。
薩長同盟締結
龍馬が薩摩藩士・黒田清隆と会談をもった時、龍馬は「王政復古の大目的を達せんには、薩長の間
を和解し、二藩連合して天下に率先せざるべからず」と熱弁したという。
その後、黒田は下関を訪れ、龍馬を交え、木戸や高杉晋作と話を詰めようとした。
長州の諸隊が反対するなどしたが、薩長和解の必要性を感じていた高杉は木戸に上京をうながし、
京都にいる西郷と会談することで、この同盟を成立させようと躍起になっていた。
薩摩の黒田も木戸に上京を求めたという。
ところが木戸は、先の西郷の一件にこだわり上京を拒んだ。
後の木戸の自叙伝には「京都に至り薩人と面会するに忍びず・・・」とある。
だが、龍馬をはじめ高杉、井上馨も再度説得し、ついに木戸は「公命(藩命)下るに至る、よって
余(木戸)恥を忍び意を決し」(上京することに決めた)と自叙伝にある。
(この時に藩命により、桂から木戸へ改名した)
慶応元(1866)年12月27日、木戸は薩摩藩士・黒田清隆と共に京都へ出発。
木戸は薩長同盟が1日でも早く成立するよう、龍馬にも半日でも早く上洛してほしいと長文の手紙で
うながしていた。
慶応2(1866)年1月8日、木戸は京都へ入り、薩摩藩家老・小松帯刀の屋敷で西郷に会った。
ところが連日宴会で互いに国事、天下の形勢を論じ合い、あっというまに数日が過ぎたものの、
双方は肝心の同盟の話には一切触れず終いだった。
龍馬は、同年1月10日に下関を出発し、大坂の薩摩藩邸に立ち寄り、20日に京都の薩摩藩二本松藩邸
に入った。
数日前から木戸と西郷はここで会談をもっていたため、龍馬はすでに薩長の同盟が結ばれている
ものだと思っていた。
龍馬は早速木戸を訪ね、同盟の成立を確かめた。
木戸は「何ひとつまとまらない」と言葉少なに答え、「もう、これ以上、京都に留まっていても
仕方ない。 明日は長州に帰国しようと思う」と言った。
驚いた龍馬は「なぜ連合のことを切り出さないのか」と問うと、木戸は「薩摩は中立の立場も取れるし、
長州の味方になることもできるが、その進退は自由である。 長州は天下を敵にまわして孤立する立場
であるため、薩摩からは同盟の話を切り出そうとはしない。 長州から言い出すことは薩摩に憐れみを
乞うことになる。 たとえ長州が焦土となろうとも面目を落とすようなことはできない。 薩長の同盟は
あきらめたが、この胸の内とこれまでの尽力のお礼を言うために、君が来るのを待っていたのだ」と
答えた。
この話を聞いて龍馬は「長州の体面もわかるが、薩長の同盟は日本国を救うためのものである。
長州の私情を持ち込まないでほしい。 しばらく待ってくれ」と言い、もう一度木戸を小松邸へ足を
運ばせた。
そして龍馬は西郷のもとにも赴いて直談判し、この際、つまらない面子を捨て、薩摩が大人として
振舞うよう要請した。
その結果、薩摩から小松帯刀、西郷隆盛、吉井幸輔、長州から木戸孝允、立会人に坂本龍馬が
同席し、薩摩藩二本松藩邸でおこなわれた再度の薩長会談において、西郷の口から「薩摩は日本を
救うために長州を全面的に援助
する」という言葉が出た。
同年1月21日、ここについに薩長同盟が成立したのである。
薩長同盟
薩長同盟は6ヶ条からなり、基本は朝敵とされた長州の名誉を回復することに薩摩が協力する
というものだった。
@戦争になったら薩摩はすみやかに2000名の兵を上京させ、在京の兵と合流させる。
大坂にも1000名の兵を配し、京都・大坂を固めること
A長州が戦争に勝てそうなときは、ただちに薩摩は朝廷側に働きかけて長州を支援し、
講和成立に尽力すること
B長州が戦争に負けそうなときでも、1年や半年では壊滅することはないから、その間に
薩摩は援護策を講ずること
C幕府が関東へ引き上げたあらば、薩摩はただちに朝廷に図って長州の冤罪を訴え、
赦免を要求すること
D一橋・桑名・会津が朝廷を利用し、薩摩の周旋を妨げる時は、すぐさま薩摩も長州とともに
決戦に挑むこと
E朝廷より赦免を得られたときは、両藩で誠意をもって皇国のために尽力し、天皇親政を
実現すること
同盟の締結によって、長州の根強い反薩感情は一掃された。
同盟の内容は密約であったため文書化されなかった。
木戸は大満足で帰藩の途につくが、万一の場合を考え、大坂より龍馬に長文の手紙を認めた。
それは、密約の内容を文章にまとめ、間違いがないかどうか、龍馬の保証を求めるものだった。
この木戸の手紙の裏面に、龍馬は赤心を表す朱書をもって、心を込めてこれに応じた。
そしてその結果、この手紙の裏表こそが薩長同盟の内容が証明された唯一のとなり、
歴史的文書となった。(宮内庁書陵部蔵)
木戸は自叙伝で同盟成立のことに触れ、次のように書き記している。
これを現代的に約してみると、
「龍馬は私が動かないのを悟り、また、あえて責めなかった。
しかし、薩摩はにわかに私の帰藩を止め、西郷は私に今日の形勢を計り、6条をもって将来を
約束した。 また龍馬はここに同席していた。
その翌夜、京都を出発し、大坂に下り数日間留まった。
しかし、同盟の6条は前途重大のことであり、私の聞き間違いがないかどうか恐れ、手紙を認め
龍馬に正した。
龍馬はその手紙の裏に6条の誤りのないことを誓い、これを返送した」
また、薩長和解のために奔走した中岡慎太郎は、薩長同盟を龍馬に託し、彼自身は上洛せず、
同年2月初旬に長州で木戸の口から直接、同盟成立を聞いたという。
しかし、維新後、元筑前藩士の早川勇は「実は薩長同盟にあたり、地道な努力をおこなったのは
慎太郎であり、功績は龍馬よりも慎太郎の方が大であった」と証言している。
龍馬よりも早くから薩長和解のために奔走してきた中岡慎太郎。
彼抜きに、この薩長同盟締結は語ることはできない。



小松 帯刀(こまつ たてわき)
1835〜1870
薩摩藩家老職の家柄である肝付家に生まれ、同じく家老職の家柄である小松家を継いだ。
島津斉彬に才能を見出されて重用され、大久保利通に請われて下級藩士の勤王グループ・
精忠組の指導者となる。
文久2(1862)年、島津久光の上洛に際して家老に任じられると藩の実権を掌握、元治年間以後は
薩摩藩を代表する立場として幕府や他藩との交渉に臨んでいる。
西郷隆盛ら才覚のある下級藩士を登用して能力本意の人事を貫く一方、長州藩との同盟締結など
思い切った政策を断行している果断決行の人だが、一面では逃亡生活を送る坂本龍馬を自分の
別荘に招いて厚遇するなど人間味あふれる逸話もある。
同時代の著名人の多くが彼を高く評価し、周囲の誰もがその早すぎる死を惜しんだ。
グラバー(Thomas Blake Glover トーマス・ブレーク・グラバー)
1838〜1911
イギリス人の貿易商。 スコットランドに生まれ、1858年に父、兄と上海に渡り、商社に勤務しながら
商業や世界の動向を学んだ。
翌年には上海から兄と共に来日し、1861年、開港直後の長崎にジャーディン・マセソン商会(東アジア
最大の貿易会社)の長崎代理店として「グラバー商会」(TBグラバー商事)を設立した。
当初の経営規模は小さく、製茶場を経営して日本茶、生糸を輸出、石油などを輸入していた。
しかし、8・18の政変後、武器を扱う死の商人としての顔も持ち、佐賀、久留米、薩摩、金沢、熊本、
土佐藩に武器や弾薬、艦船を売り、巨万の富を得ることになる。
文久2(1862)年の「生麦事件」の際に、薩英間の仲介に入ったことから、薩摩の五代友厚
(船奉行副役)と知り合い、薩摩に急接近していった。
長州藩士・伊藤博文や薩摩藩士・五代友厚らのイギリス留学を援助し、また、長州藩士・木戸孝允を
私邸に匿ったこともある。
しかし、1870年、グラバー商会は破産してしまう。
その後は高島炭鉱で働いたり、三菱に雇われたり、ジャパン・ブリュワリー・カンパニー(キリン・ビール
の前身)の設立に参画したりし、後半生も日本で過ごし、2人いる妻は共に日本人である。
グラバーは討幕諸藩に武器を売ったため、後年「徳川氏に対する反逆人の中では、自分が最も
大きな反逆人だと思う」と語った。
また、「薩長の間にあった壁を壊したのが、自分の一番の手柄」とも語っている。
なお、長崎の観光名所として知られる「グラバー園」にある「旧グラバー邸」は1863年の建築で、
現存する日本最古の洋館である。
薩摩藩二本松藩邸跡碑(さつまはんにほんまつはんていあとひ)
京都市上京区烏丸通今出川上ル東側
京都の薩摩藩邸は錦小路東洞院(現在の大丸百貨店の場所あたり)にあったが、それに加えて、
文久3(1863)年に二本松(現在の同志社大学 今出川キャンパスの場所あたり)にも新しく
建てられた。
薩長同盟は、この薩摩藩二本松藩邸で締結された。

今、韓国では龍馬が熱い!