桜田門外の変
江戸城 桜田門の古写真

諸外国の強硬姿勢に抗しきれず開国に踏み切った幕府だったが、朝廷の勅許を得ずに条約を締結した
ことや、開港による貿易の輸出超過のため国内物資の不足が起り、物価が高騰するなど庶民生活は
圧迫された。  そして、尊皇攘夷思想は天皇をないがしろにした幕府の横暴と政策の失敗を批判し、
政権の打倒を唱える倒幕思想、さらには討幕思想へと結びついていく。  さらに、井伊直弼の強硬手段
は大きな反発を招き、万延元(1860)年3月3日、直弼は江戸城の桜田門外で暗殺されてしまう。
世にいう「桜田門外の変」である。  この事件によって幕府の専制的な政治体制は崩れ、その権威は
大きく失墜してしまうことになった。

江戸城の前で大老が暗殺されるという衝撃的な事件によって、政権の弱体化を曝け出した幕府は各藩
への影響力を強めようとこれより公武合体を目指すこととなる。

江戸城 桜田門の古写真

桜田門
桜田門
桜田門外の変の地

桜田門(さくらだもん)

東京都千代田区

桜田門外の変の地(さくらだもんがいのへんのち)

東京都千代田区霞ヶ関

井伊 直弼(いい なおすけ)

井伊 直弼
1815〜1860

彦根藩主。

井伊家13代当主となった直弼は藩祖・直政以来の「井伊の赤備」(勇猛果敢な軍勢)の復活をかけて、
ペリー来航時の相州警備に従事し、その面目をほどこす一方、本来の京都守護の特命をも得ているが、
安政5(1853)年4月に幕府の大老に就任した。

直弼の政治姿勢は直弼自身が語っているように、「公武一体」の体制で「永世叡慮」(天皇の心持ち)」
を甘んじ奉るというものだった。
直弼は内政においても外交においても常に現場にあり、ことの是非、および政策実現の可否をもっとも
身近に感じ取っていたからこそ強行されたといわれる数々の歴史的決断を実行できたのだろう。
そういう意味では直弼こそ稀にみる現実政治家とみることができる。

江戸城 桜田門外は現在では警視庁の前になる。
ここが正に「桜田門外の変」の現場となった。